2009년 5월 7일 목요일

日本の労働

戦後 [編集]
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復活期(1945 -) [編集]

1945年敗戦を迎えて、GHQの統治下に入る。そのGHQの民主化政策の一つが労働組合の育成であった。また、戦時中に投獄されていたり、活動を沈静化させていた共産主義者や社会主義者、無産運動家、労働運動家が活動を再開し、労働運動は活発化、組織化した。特に46年から47年にかけて労働組合が相次いで結成され、46年の組織率は約40%、組合員数も約400万人に及んだ。現在ある組合の多くが何らかの形でこの時期に端を発したものである。また、激しいストライキが頻発し、暴力行為が伴うこともしばしばあった。

当初の労働運動は、インフレや産業荒廃を背景にした生活条件闘争がそのほとんどを占め、また左派優位であった。それらの一番のピークは47年2月1日に計画された二・一ゼネストで、官民合わせて数百万人が参加する予定だった。だが、GHQは「日本の安定のため」とこれを禁止。以降、反政府色の強い運動に対し制限が加えられることとなる。具体的には、48年の公務員のストライキ禁止、49年の労働組合法・労働関係調整法の改正、50年のレッドパージや団体等規正令などである。このGHQの政策転換に右派系・中道系の組合の地位が相対的に強まり、また日本共産党の影響が強かった左派系の組合では共産党の影響を排除しようとする産別民主化同盟(民同)の影響が強まった。

50年、民同勢力と右派勢力、中道勢力が合同して新しいナショナルセンター、日本労働組合総評議会(総評)を結成、その下に多くの組合が集結した。総評は中道・労使協調的な方向で設立されたはずだったが、朝鮮戦争や51年9月8日にサンフランシスコ平和条約が調印されたことに伴う旧・日米安全保障条約を巡る運動、さらには朝鮮特需によって引き起こされた労働者へのしわ寄せから、労働運動が活発となり、総評は左派色を強めた。

成長期(1952 -) [編集]

1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発行、GHQの日本支配が終わる。日本の経済も拡大を見せるが、産業全般にわたる合理化も進められる。その中で左派系組合の運動が先鋭化し、炭労や電産などによる大規模ストが頻発する。これらの多くが失敗に終わり、組合の分裂が多く起こった。その象徴としては54年の全日本労働組合会議(全労会議)の成立が挙げられる。

55年頃からの神武景気などで国民生活も戦前並に回復し、「もはや戦後ではない」とまで言われるようになった。労働運動も生活条件闘争に加え、労働環境の改善、権利闘争も多く行われるようになる。その中で春闘が56年に始まる。当初は総評と中立労連傘下の組合が中心となっていたが、60年頃になると全労会議、新産別からの傘下も相次いだ。

59年の三井三池争議と安保闘争、さらにそれらに伴う労働運動の盛り上がりとその敗北は労働運動に大きな転換点となった。三池争議は、総労働 対総資本の闘いと言われた激しい争議の末に組合側が敗北しており、また安保闘争も激しい反対運動にもかかわらず日米安全保障条約の成立が強行されたことから、様々な対立が生まれた。これらへの反省などから、絶対反対から政策転換闘争へ、という方向転換が労働運動にもたらされた。高度経済成長に伴う生活水準の向上もこの流れを後押しした。

また、労働運動や学生運動とは性質を異にする市民運動が出てきたのもこの頃からである。これらはベトナム戦争反対運動や沖縄返還運動へとつながっていく。

確立期(1960 -) [編集]

この頃は経済成長と春闘の定着で労働者の賃金は上がっており、雇用も安定していた。労働運動も労働環境の改善や権利闘争がその比重を増している。争議行為は数多くあったが、組合の運営などは比較的安定していたといえる。

安定期(1973 -) [編集]

1973年の第一次オイルショックの影響で日本の高度成長が終わり、経済は戦後初のマイナス成長となり、経済構造に変化を与えた。これによって雇用情勢が悪化し、賃上げ闘争に代わって生活防衛闘争をするようになる。さらに経済が安定成長時代へと移ると、労働運動も労使交渉を重視する傾向になり、労使関係の安定化が進んだ。だがそれは、生活水準の向上などと相まって、労働者の組合離れを生むことになった。数字としても、83年に全労働組合の組織率が30%を切り、右肩下がりの状態が続いていた。

再編期(1980 -) [編集]

労使交渉の重視という左派系組合の態度の軟化に伴い、労働戦線統一の機運が次第に高まっていった。そして1980年9月30日、労働戦線統一推進会が総評と全労会議の後身である全日本労働総同盟(同盟)との間で結成され、82年12月14日に全日本民間労働組合協議会(全民労協)が発足する。これにより、労働戦線と統一は早まり、87年11月20日には全日本民間労働組合連合会(全民労連、連合)が発足、89年11月21日にナショナルセンター四団体の統一組織である日本労働組合総連合会(連合)が発足した。

これにより、単産単位での組合の組織統一も増え、規模の大きな組合が出てくる。また、これらの流れを右傾化と批判する組合が全国労働組合総連合(全労連)、全国労働組合連絡協議会(全労協)を相次いで組織し、これらに加入するために分裂した組合も数多くあった。

また、労働組合の組織率は低下の一途を辿っていった。

衰退期(1992 -) [編集]

冷戦構造の終結やソ連・東欧の旧共産主義陣営の消滅と共に日本の労働運動も衰退していく。折りしも日本はバブル崩壊による長期不況の突入で企業の倒産やリストラが相次いだ。日本の労働者を支えてきた正規雇用、年功序列などは音を立てて崩れ始める。

しかし、本来労働者の権益を守るはずの連合は主導的かつ効果的な反対運動を取れず、それに伴う組合員の減少も食い止められなかった。これは、労使協調路線によりむやみに現実離れした会社への要求はかえって会社の業績を悪化させ、ひいては労働者自らのクビを締めることになりかねないと判断されたからである。

また、能力主義・成果主義の導入や非正規雇用者の増加など資本側による攻勢に対して常に対応は後手後手に回っていた。組織率、組合員数は共に減少はこれまで以上に加速する。組織率では2005年には19.9%となり、戦後初めて組織率が20%を切った。

また組合員の意識の変化もあり、選挙での集票力が落ちるなど、その社会的影響を減らしている。マスコミ報道で労働運動に対するマイナスイメージが伝えられたり、国民意識の変化によりかつてのように争議行為にも理解が得られにくくなったことも影響している。

その中で連合は与野党を問わない積極的な政策協力・要求政策をしているが、かつてのような発言力はなくなっている。

最近の動き [編集]

近年の日本では、労働組合組織率の低い若年労働者を中心に、労働環境が悪化している。特にフリーターや派遣社員、非正規社員の過酷な労働環境が注目され始めており、彼らに対して加入を勧める労組も現れている。